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大阪高等裁判所 昭和62年(う)1287号 判決 1988年7月07日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は弁護人関戸一考作成の控訴趣意書及び控訴趣意補充書に、これに対する答弁は検察官足達襄作成の答弁書に各記載のとおりであるからこれらを引用する。

控訴趣意の論旨は、まず、原判決が被告人の過失を判示するにあたり「自車左前方約45.6メートルの地点に、自車進路前方を左から右へ横断しようとしているA(当時八〇歳)を認めたのであるから、前方注視を厳にし進路の安全を確認しつつ進行すべき注意義務がある」としている点について、被告人は右地点においては横断歩道の方に向っている歩行者を認めたにすぎないのであるから、右Aが八〇歳であり同女が横断しようとしているのを認めたとしているのは事実を誤認したものであり、また、原判示の交差点を前方青信号に従って直進通過しようとしていた被告人としては、右歩行者が横断歩道前方の赤信号に従い自車の通過を待つものと考えるのは当然であって、右歩行者を認めたことによっても自動車運転者に通常要求される程度を超える高度の注意義務を負担するに至るものではないのであるから、被害者の年令についての認識がどうであれ、同女が横断しようとしているものと認識していたとの誤認の事実を前提にして、「横断しようとしているAを認めたのであるから、前方注視を厳にし進路の安全を確認しつつ進行すべき注意義務がある」として、あたかも自動車運転者に通常要求される程度を超えた高度の注意義務があるかのようにしているのは法令の解釈適用を誤ったものであって、右各誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかであるというものであり、次に被告人に科せられる注意義務に関する右判示にもかかわらず、原判決の「罪となるべき事実」及び「弁護人の主張」(原判決は「弁護人の主張」としているが「弁護人の主張に対する判断」とでもするのが相当であろう)における判示及び説示を総合すると、原判決は、右通常要求される程度を超える高度の注意義務違反の有無を問題にしているのではなく、結局のところ自動車運転者に通常要求される前方注視義務を被告人が欠いたために赤信号を無視して横断を開始した被害者の発見が遅れたことに被告人の過失を認めるもので、もし被害者が歩道と車道の境界をなす縁石線から一〇センチメートル車道上に進出した時点で被告人においてこれを発見し衝突を回避する措置を講じていたら本件結果を回避できたのに被告人は前方注視を怠ったため横断しようとしている被害者を右時点で発見することができず本件を惹起したとする趣旨にも解し得る点について、前同様青信号に従って通過しようとしていた被告人としては、右時点でもなお被害者が赤信号に従って停止し自車の通過を待つものと考えるのが当然であって、被害者が赤信号を無視して自車前方を横断するものと予想してこれとの衝突を未然に回避するための措置を講ずべき義務を未だ負担するものではなく、被告人に右のような予見義務が発生するのは被害者が更に1.2メートル程度車道内へ前進した時点というべきであるが、その時点では被告人運転車の速度との関係で既に結果回避の可能性が存しないのであって、結局被告人に注意義務違反は存しないということになり過失は認められないというべきであるから、右の点においても原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな法令解釈適用の誤りが存するというものである。

そこで検討するのに、本件各証拠によって認められる事実のうち右所論に対する判断に必要な限度でこれを掲記すると次のようなものとなる。

1  原判示の交差点は、片側二車線でうち西行部分の全幅員が7.6メートルの車道部分とこれに接して設置された歩道部分からなる東西方向の道路と南北に通じる市道とがほぼ直角に交わる交差点で、信号機による交通整理が行なわれている。被告人の進行した東西方向の道路は両方向とも車両の通行が頻繁で最高速度は時速四〇キロメートルに制限されている。本件事故の発生した横断歩道は右交差点西端に接して設置され右被告人進行道路を南北に横断するものである。

2  被告人は右本件交差点より二ケ所東寄りの交差点で赤信号により一旦停止後、青信号に従って先頭車として発進し、片側二車線のうち中央寄り車線を時速約四五キロメートルの速度で西進してそのまま青信号に従い直進するつもりで本件交差点手前にさしかかり、原審裁判所の検証調書添付の検証見取図Ⅱ(以下単に見取図という)の①の地点まで来た時、本件交差点南西角に接する歩道上見取図file_3.jpgの地点に北へ向っている一人の歩行者(本件被害者)及びその前方で本件横断歩道の南端部分が歩道の縁石線に接する付近で信号待ちで佇立している二ないし三人の歩行者を認めた。

3  被告人は右file_4.jpg地点に認めた歩行者も信号待ちのため佇立している他の歩行者同様横断歩道南端部分付近で停止するものと考え、同人の動静を殊更に注視し続けることもなくそのままの速度で進行し、同交差点北西角方面へ一瞬視線を移した後右①地点から19.6メートル進行した見取図②の地点で自車前方に視線を戻した時、先の歩行者が右file_5.jpg地点より3.2メートル横断歩道上に進出した見取図file_6.jpgの地点を小走りに横断中であるのを発見し、衝突の危険を感じて直ちに制動の措置を執ったが及ばず、右②地点から24.9メートル進行した見取図③の地点で横断歩道上見取図file_7.jpgの地点の歩行者と衝突したのち更に6.6メートル進行して停止した。

以上の事実に基づき被告人の過失の有無について考察するのに、まず、本件交差点は信号機による交通整理の行なわれている交差点で被告人の進行方向は前方青信号を表示していたのであるから、これに従って本件交差点を直進通過しようとしていた被告人としては、特別の事情のない限り、前方の横断歩道上を横断しようとする歩行者はすべて横断歩道前方の赤信号に従って横断をさし控えるものと期待し信頼するのは当然で、自動車運転者に通常要求される前方注視義務を尽しつつ運転すれば足り、赤信号を無視して横断する歩行者があることまでも予想してこれに対処し得る運転方法を執るまでの義務はないのであって、右file_8.jpg地点に北へ向け歩行中の本件被害者を認めたことによってもこの点は何ら影響を受けるものでない。なお、被告人がfile_9.jpg地点に被害者を認めた際、同人が老女であることを認識していたか否か及びその際既に同人がうつ向き加減で小走りの状態にあったか否かの点については被告人の供述に変遷があっていずれとも断定し難いのであるけれども、仮に老女であることまで認識していたとしても右期待ないし信頼の正当性に影響なく、小走りであったか否かの点についても、もし仮に被害者が右時点において全力疾走中である等赤信号に従って停止することがおよそ期待できないような態勢にあったというのであれば、既にこの時点から同人の動静に注視しつつ運転する等して衝突を回避すべく運転する義務の生じることも考えられるけれども、本件ではせいぜい小走りであったというにとどまるからこれまた右期待ないし信頼の正当性に影響しない。そうすると、原判決が被告人の過失を判示するにあたり「横断しようとしているAを認めたのであるから、前方注視を厳にし進路の安全を確認しつつ進行すべき注意義務がある」としているのは、被害者が赤信号を無視して直ちに横断しようとしているのを被告人において認識していたとの趣旨であるならば、それは事実を誤認したものといわねばならず、また自動車運転者に通常要求される程度を超える高度の注意義務を科するとの趣旨であるならば、それは過失について法令の解釈適用を誤ったものといわねばならないのは所論のとおりである。しかしながら所論もいうように、原判決は結局のところ、右file_10.jpg地点に被害者を発見後、被告人が一瞬視線を他へ移したため自車前方に対する注視がおろそかになり、赤信号を無視して横断を開始した被害者の発見が遅れたところに被告人の実質的な過失が存し、そのために本件結果を生じたとし、もし被害者が右file_11.jpg地点から一メートル前進した時点で被告人においてこれを発見して赤信号を無視して横断するものと認識し、衝突を回避すべく措置を執っていたならば本件結果を回避できたとしているものと解せられるので、次に右判断の当否について考察する。原判決は、被告人において被害者が右file_12.jpg地点から一メートル(歩道縁石線から車道内へ一〇センチメートル)前進した瞬間にこれを発見し衝突を回避すべく急制動の措置を執れば、現実に要した制動距離に徴し本件横断歩道の手前で停止することが可能であって本件結果は生じなかったということを前提にして、前方不注視のため右時点において被害者を発見せず従って衝突回避のための措置も執らなかったところに被告人の過失があるとするものであるところ、右立論のうち前提部分は証拠上認められる被告人運転車両の速度と被告人が被害者を最初に認めた時点及び危険を感じて急制動の措置を執った時点における被告人運転車両の各位置(見取図①及び②)並びにこれらに対応する各時点における被害者の位置(見取図file_13.jpg及びfile_14.jpg)の各距離関係等をもとに合理的に算出される結果であって格別異とするところはないのであるけれども、問題は、右前提部分が承認できるからといって、仮に被告人において被害者が右file_15.jpg地点から一メートル前進した時点でこれを発見していたとしても、被告人が青信号に従い交差点を直進通過しようとしていた者であることとの関係で、右時点で被告人に本件結果の発生を予見しこれを回避すべき義務を科することが妥当かどうかという点にあって、当裁判所のこの点についての結論は、右時点においては被告人に未だその義務はないとするものである。すなわち、先に認定のとおり被告人は本件交差点を前方青信号に従って直進通過するつもりであって、特別の事情のない限り、本件横断歩道を横断しようとする歩行者はすべて前方の赤信号に従って横断をさし控えるものと期待し信頼しても何ら責められるべき点は存しないのであって、このことは前述のように本件被害者を見取図file_16.jpgの地点に発見した時点においてのみならず、仮に被告人が被害者から視線を離すことがなく被害者が右file_17.jpg地点から一メートル(歩道縁石線から車道内へ一〇センチメートル)前進したのを現認したものとしてその時点においても、当時既に数人の歩行者が横断のため赤信号を待って佇立していたこと、被害者が歩道縁石線から一〇センチメートル車道内へ進出したとしても車道の西行部分の全幅員が7.6メートルでそのうち歩道寄り車線の外側線と歩道縁石線の間に1.3メートルの間隔のある道路の中央寄り車線を通行している被告人にとっては右一〇センチメートルは被害者が縁石線上にある場合と対比して有意の差があるとは考えられないこと、道路を横断しようとする歩行者が歩道を降りて車道内へ立ち入って信号待ちをする例は日常しばしば観察される現象であること等に徴すると、なお妥当するといわねばならないのであって、他に何ら特別の事情も存しないのに、この時点で、被害者が赤信号を無視して横断するもので自車がこのまま進行すれば同人との衝突を避けられないものと予見し従って右衝突を回避するための措置を執るべき義務があるとする原判決の判断は過失について法令の解釈適用を誤ったものといわねばならない。そして、先に認定のような状況下で自動車を運転中の被告人に右のような予見義務が生じるのは、早くとも、被害者が更に車道内に進出して歩道縁石線から1.3メートルの間隔にある車道外側線あたりに達した時点すなわち見取図file_18.jpgの地点から2.2メートル前進した時点(被告人運転車両の速度を時速四五キロメートルすなわち秒速12.5メートルとすると、同車両が見取図①の地点から②の地点まで19.6メートル進行するのに要する時間は1.568秒となり、被害者はこの間に見取図file_19.jpgの地点からfile_20.jpgの地点まで3.2メートル進んでいるのであるから一メートル進むのに要する時間は0.49秒で、2.2メートル進むのに要する時間は1.078秒となるから、被害者のfile_21.jpg地点通過後1.078秒後)あたりと考えるのが相当であり、被告人運転車両は右file_22.jpg地点に被害者を発見後右時点までの間に見取図①の地点から13.725メートル進行することとなるから、衝突地点である横断歩道まで31.025メートルを残すに過ぎないのであって、この時点では、被告人が衝突を回避すべく急制動の措置を執ったとしても、現実に要した被告人運転車両の制動距離が31.5メートルであったこと、右計算の前提となった各地点の位置関係に多少の誤差を伴うことが避け難いこと、被害者が歩道の縁石線を越えて車道に立ち入るにあたり多少逡巡したということも大いに考えられるから1.3メートル先の車道外側線に達するまでの所要時間が計算上のものより長くなり従って右時点までに被告人運転車両も横断歩道に一層近接している可能性も存すること等を考慮すると、本件衝突を回避することが可能であったとかあるいは衝突は不可避としてもより軽微な結果にとどまったとか断ずるには大いに疑問があるといわねばならず、所論のいうように、被告人に本件結果について予見義務が生じると考えられる時点においては既にそれを回避する可能性が存しなかったというべきで従って被告人に回避義務を科することはできず結局注意義務違反のかどは存しないこととなる。なお、被告人の予見義務の発生時期を信頼の原則を適用して以上のように解するうえで、本件時被告人は制限速度を五キロメートル超過する時速約四五キロメートルで進行していたという道路交通法違反の事実が支障となるかどうかは検討を要することろであるが、超過速度が僅か五キロメートルであることと、これに対比してその信頼が信号の遵守という強度に保護されて然るべき内容であることを考慮すると格別影響するところはないと解すべきである。そうすると、被告人が前述のような注意義務を怠ったとする原判決の判断には過失について法令の解釈適用を誤った違法が存しこれが判決に影響を及ぼすことが明らかであるから破棄を免れず、論旨はこの点に関し理由がある。

よって、本件控訴は理由があるものとして刑事訴訟法三九七条、三八〇条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により当裁判所において更に判決する。

本件公訴事実は「被告人は、自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和六一年四月一六日午後零時五分ころ大型貨物自動車を運転し、大阪市淀川区塚本二丁目一三番一四号付近の交通整理の行なわれている交差点を東から西に向かって進行中、自車左前方(交差点南西詰歩道上)約45.6メートルの地点に、自車進路前方を左から右へ横断しようとしているA(当時八〇歳)を認めたのであるから、前方注視を厳にし進路の安全を確認しつつ進行すべき注意義務があるのに、同人が横断することはないだろうと軽信し、右前方(交差点北西歩道上)の歩行者らを見ていて自車の前方を注視せず、時速約四五キロメートルで進行した過失により、自車前方道路を左から右へ横断して来た前記Aに自車前部を衝突転倒させ、よって同人に脳挫傷等の傷害を負わせ、同日午後一一時九分ころ同市西淀川区柏里一丁目一四番一三号所在の西大阪病院において、同人を右傷害により死亡させたものである。」というものであるが、先に所論に対する判断として説示したとおり、被告人に公訴事実記載のような過失は認められないから犯罪の証明がないことに帰するので刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言い渡しをすることとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官松井薫 裁判官清田賢 裁判官島敏男)

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